節分の歴史は?なぜ豆まきをするのか?

節分の豆まき

2月3日は節分ですよね。

よく幼い頃に、誰かを鬼役にして、家族で豆まきをしたものです。

また、幼稚園や保育園では
先生が鬼の役をやってくれて、
思いっきり豆を投げつけていた記憶があります。笑

大人になった今では、ほとんど忘れてしまっていますが、
楽しかったのだけは覚えています。 

当時は、母親が後始末をしてくれていたので、
よくよく考えると、豆の後片付けが相当大変だったと思います。(^^;;

そんな”節分”ですが、意外にも歴史が古いのをご存知ですか?

スポンサーリンク

節分の期間

節分とは2月3日ですが、
立春とは、春の前日のことを指しています。

旧暦では元旦から7日まで、
新暦では2月3日から4日にかけてを
節分と呼びます。

もともとは、宮中で大晦日の日に厄を払って新年を迎えるという
儀式のことを「節分」と呼んでいたのです。

節分の意味

「季節の変わり目には、鬼がやってきて生活の中に入ってくる」

昔はこのように思われていました。
中でも、春の節分は一番大きな変化とされており、
節分といえば、春のことを指す意味で使われていました。 

ちなみに、ここでいう「鬼」とは、「悪」や「厄」のことを指しています。

古来の本では、この鬼を払うべく行われていたのが

「鬼やらい」

すなわち、現在でいう「豆まき」なのです。

豆は鬼の眼をつぶし、鬼を撃退する方法とされていたのです。

ちなみに、節分ではイワシもよく聞きますが、
イワシの頭はその悪臭で鬼を撃退すると考えられていたそうです。

節分の豆

スポンサーリンク

節分の起源は奈良時代

節分の始まりは古く、慶雲3年(706年)奈良時代になります。

当時の天皇は文武天皇でした。

このとき諸国では謎の疫病が流行しており、とても危険な状態でした。
そこで「鬼儺(おにやらい)」の儀式が行われたのです。
これが豆まきの始まりだといわれています。

豆まきは平安時代

887年から897年の平安時代で、当時の宇多天皇の頃に
鞍馬山の奥にある僧正ヶ谷に住んでいた鬼が、
都の方で悪さをしようと、都へくり出しました。

しかし、豆を投げられ、その豆が偶然鬼の眼に当たり、
目を傷付けられた鬼は、山へと逃げ帰ったそうです。

これが豆まきの始まりだとも言われています。

ルーツとしては、厄除けという意味では奈良時代で、
豆まきという行事が初めて行われたのが平安時代ということになります。

「鬼は外、福は内」の言葉は室町時代

時代を進め、室町時代では、豆を撒くときに
ある言葉が唱えられるようになりました。 

鬼は外福は内

今では、豆まきの定番文句となっていますね。

一般家庭に広まったのが江戸時代

江戸時代の中期頃には、社寺の行事として行われるようになり、
浅草観音では、朝早くから豆をまきにくる参拝客が押し寄せ、
整理券を配るといった光景がみられたそうです。

その様子を

「人の手、武蔵野の尾花(スズキ)の如し。」

と称されるほどだったようです。

また、このあたりから社寺や公的な場所でしか行われていなかった
豆まきが、広まり、一般層でも行われるようになりました。

一度は豆まきがなくなり、復活した明治時代

江戸後期の明治維新の際には、一時的に豆まきを行うことが無くなってしまったのですが、
明治後期には再び豆まきが復活し、現在に至ります。

一度は消えてしまった豆まきという伝統行事ですが、
長い歴史の中で、再び火がつくということもあるようです。

もしかすると、50年後には、全く違う豆まきになっているのではないでしょうか?

”雪合戦”ならぬ、”豆合戦”として、下手したらスポーツ化してるかもしれません。
将来が楽しみです。( ´ ▽ ` ) 

スポンサーリンク

フォローする

関連記事

あなたにおすすめな記事